「貴女の初体験を美味しい香りと共に」
まーゆ
辺りはざわざわとした他のお客さんの話し声が聞こえ、私達を暗くほんのりと優しい朱のライトが照らす。
今日は一日中、街散策のロケの為歩いていたので、足は棒の様に固く鉛の様に重い。
残念ながら、その間支えてくれたプロデューサーちゃんは劇場に残って報告や次への資料作りに忙しいとの事。微力ながらに歌織ちゃんと二人手伝いを申し出たが、これはプロデューサーの仕事だからと笑顔で断られ、私達は渋々劇場を後に。
『何かこのまま帰るのもあれだから、お疲れ様会しましょ?』
私がそう言って、軽い打ち上げとして選んだ此処は、全国にある劇場近くの焼肉食べ放題チェーン店。
着席した途端に店員に聞かれた注文に、とりあえず生ビール一つ、瓶ビールを一つと伝え、去った後に備え付けのタブレットに慣れた手付きで初心者の歌織ちゃんに欲しいものを聞きながら色々注文。
目の前には今まさに、じゅうじゅうと音を立てて片面が焼けると思われる牛肉のタンが少し形をぐにゃりと変わらせ、良い香りを乗せた煙がふわりと舞い上がり、私の鼻をくすぐった所で──。
「いやー、食べ放題のお肉といえど、美味しいものは美味しいわよねー」
「食べ放題はあまり行った事が無いのだけれど……こういうのも美味しいのよね?」
先に届いたおつまみを一口、そしてビールを一口飲み唸る。
自分は普段から行った事があるが、お肉の食べ放題には行った事が無いという彼女にとっては珍しく、多少の不安要素もあるらしい。
値段の安さに目を見張ったり、普通の焼肉屋とは違うお肉以外のサブメニューの多さに驚いたりしていて。
「まぁ、そこはタレよタレ。後、今の食べ放題って案外普通より手を込んでいたりするのよ?」
「へぇ…」
この塩タン用の、乗せるネギの絡んだタレも手を込んでいて。お肉だって、更に安く提供出来る様に苦労しているのだろう。
見えない所に手を加えるのも大事である。私はトングでひっくり返して軽く炙り、彼女のお皿を手にとって乗せてあげた。
「はい。これでこのネギを乗せてみて?」
「え、ええ……頂きます」
タンは片面を焼き、片方は軽く炙るだけで良い。これは誰でもやる常識。
されどやはり食べ放題のお肉には少し不安はあるのだろう。彼女はおっかなびっくりの手付きで私に言われた通りネギを乗せ──一口食べた。
「ん、美味しい…!」
「でしょー?」
「ええ!このネギがお肉と絡んで、とても美味しいわ!」
「ふふ。とても喜んでくれて嬉しいわー!」
何だか店の者では無いのに自分が褒められた様で鼻が高い。
何もお肉の素材だけでは無い。他の食材の相性も大事なもの。
すかさず次のお肉も焼き、自分用に焼いて置いたお肉を同じ手順でネギを乗せて一口食べる。
「んー、美味しー!……そしてビールが進むのよねー」
「もう、莉緒ちゃんったら」
「良いのー!言っておくけど、美味しいのは他にもあるんだからねー?」
ネギの濃厚なタレとあっさりとしたタンの旨みが口の中で広がり、残った脂を流す様にビールが喉を通っていく。
まだ始まったばかりなのにというのはご愛嬌。くすくすと笑う彼女だって、小さいグラスだがそこには半分も減ったビールがある。
私は焼いているタンを見ながら、次の物を選ぶ為にメニューのタブレットを手に取った。
「こういうのって、先にある程度頼んでおかないと中々来ないのよね」
「そうなの?」
「そうよ。周りを見て?」
「人がいっぱい居るわね」
「……でしょ?安くて美味しいってのは、それだけ人の集まりが多くて注文も多いのよ。それでいて店員さんだって人手に似合わず忙しいから、見れない時だってあるしね」
「なるほど……」
よくある忘年会で見られる、飲み物が中々に来ないとかそういうものだ。
学生時代にアルバイトをしていた友人が『想定外のお客の多さに、働く人手が足りない』と、愚痴を溢していたりしたものである。
纏めて頼んでいた方が助かる模様。彼女に説明しながらお肉のページをスライドさせて、考えた部位を目で追う。
「とりあえずこっからは適当に選んで良い?勿論順番とかあるけど、別にそれに拘る必要ないしー。歌織ちゃんの好きなものは頼むわよ?」
「ええ、ありがとう。じゃあ、この鶏とこのハラミとか──」
言われたメニューの一人分を頼み、その他のものも指示に合わせて自分の分と適当にタップする。
時折食べ放題ならではのサイドメニューに、目を輝かせて聞いてくる彼女が可愛らしくて、彼女が知らない事を教えられる喜びに意気揚々。
説明しながらにやけていると、その様子に彼女から不思議な顔をされ、私は「何でもない」と苦笑した。
(続きは本編でお楽しみください)
もっと!おいしい暮らし
サンプル(まーゆ / 1作目)
page:37~39
(本編内:37~49ページ)